【第2回】命の終い方と「同行(どうぎょう)」の精神〜信州とタイ、二つの視点から考える〜

60歳からのマインドシフトと健康(葛藤と挑戦)

仏教や人生哲学において、「同行」とは文字通り「同じ道を共に歩むこと」を意味します。

私たちが生きる日常における「同行」とは、相手の運命を無理にコントロールしようとするのではなく、相手の自然な命のあり方にただ静かに寄り添い、ありのままの時間を一緒に受け入れる覚悟のようなものです。

私自身、この「同行」の精神の本当の重みと難しさに気づいたのは、母の介護が終わり、自分自身の人生を振り返る静かな時間が戻ってきてからのことでした。

母の病状が進み、食べ物が自分で食べられなくなった際、医師から「胃瘻(いろう)」という確実に延命ができる手術の選択肢を提示されました。

元看護婦であり、同じような境遇の患者さんを何人も看護してきた母にとって、自分の意思とは無関係に果てしなく生きてしまう状態が本当に幸せなことなのだろうかという、重い葛藤がありました。

医師から選択を迫られ、兄弟で何度も話し合いを重ねました。

迷い抜いた末に、どうしても母の死を受け入れる事は出来ず、胃瘻をすることを決断しました。

ところが、いざ手術という段階になって、母の場合はすでに胃が萎縮しており、物理的に胃瘻を作ることができないことが判明したのです。結果として自然な形での見送りとなりましたが、この出来事は私に大きな反省と問いを投げかけました。

私たちは高度な医学に頼ることで、母を無理に「生かそう」としていたのではないか。

もし「同行」の精神を真に理解していたなら、延命という選択肢にすがるのではなく、萎縮していく母の体にただ寄り添い、寿命を受け入れる覚悟を持つべきだったのではないかと。

日本の医学の進歩は素晴らしいものですが、タイのように高所得な人でないと高度な医療が受けられない国では、人々は医療に依存しすぎず、自身の自然な寿命をありのままに受け入れて生を全うしていく現実があります。

タイの人々が持つ、運命や自然の摂理を柔らかく受け入れる精神性には、命の終わりを無理に引き延ばすことよりも、今ある時間を大切に生き切るという強さがあります。

「時の流れは、体験の数」です。

限られた命の時間の中で、どれだけ大切な人と「同行」できるかが、人生の質を決めるのだと思います。続きはこちらから


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